W 今回はポーの「ウィリアム・ウィルソン」です。ポーの小説は、このブログの第23章で「盗まれた手紙」を取り上げましたから、今回で2回目ですね。現在、ポーの作品は、青空文庫で12編読めて、公開に向けて作業中の作品も9編あるようです。
この「ウィリアム・ウィルソン」、小池さんは読んだことありましたか?
K いえ、今回初めて読みました。
W どんな感想を持ちましたか?
K すごく新しい感覚というか、最近の作品といわれてもおかしくないように思いました。
K 青春小説ですね。
W それは素晴らしい意見だなあ。僕は全然考えつきませんでした。
「ウィリアム・ウィルソン」ちくま文庫ですと40ページ、新潮文庫ですと42ページあります。少し長めの短編小説。ポーの短編小説を集めた文庫本には、たいてい入っています。彼の代表作の一つです。
1839年というから、今から175年も前に発表されたものですが。ポーが30歳の時の作品。今の小池さんと同じ年ですね。
K なるほど。
W 前回取り上げた「ジーキル博士とハイド氏」の青空文庫版に、訳者の佐々木直次郎さんが解説を書いているんですが、次のような一節があります。
作そのものについては茲(ここ)に解説しない。エドガー・アラン・ポーの「ウィリアム・ウィルスン」、オスカー・ワイルドの「ドリアン・グレーの肖像画」などと共に、この種の文学としては世界的古典となっているが、それらとの比較も読者にとって興味ある題目であるだろう。
(「ジーキル博士とハイド氏の怪事件」青空文庫、佐々木直次郎の解説より)
W ここで、「ジーキル博士とハイド氏」に似た小説として、ポーの「ウィリアム・ウィルソン」とオスカー・ワイルドの「ドリアン・グレイの肖像画」が挙げられています。この佐々木さんの文章に限らず、上の3つの作品は、一緒に論じられることが多いようです。やはり、似ている点が多いのかな。「ドリアン・グレイ」についても、あとで少し触れたいと思います。
K 「もう一人の自分」というモチーフが共通していますね。
「ウイリアム・ウイルソン」は「アッシャー家の崩壊」と違って一言で言える物語である。つまり「分身に苦しめられる人間」の話である。単純と言えば単純であるが、ポーはこの作品においてもっとも深く人間性の奧まで侵入している。ポーはウイルソンに自分と同じ誕生日を与えている。ドストエフスキーはこの作品をほとんど崇拝していた。初出は一八三九年の中頃に刊行された『ギフト』。原題は”William Willson”
(西崎憲 熱と虚無――エドガー・アラン・ポーとは何か(エドガー・アラン・ポー短篇集(西崎憲 編訳)ちくま文庫 2007、283ページ より)
W 上の引用は、「ウイリアム・ウイルソン」も入ったポーの短篇集に訳者の西崎憲さんが書いた解説の一部です。「分身に苦しめられる人間の話」というまとめは見事です。作者が自分と同じ誕生日を主人公に与えているということは、自伝的な要素もある作品なわけですよね。
K そうでしょうね。作者がもっと若かったころの自分を表現している部分はあると思いました。
W 主人公と同じ名前の男も同日生まれだから、同じ生年月日の人間が3人いるということになります。
それをなんと言うのだ?わが道に立つかの妖怪、恐ろしき良心とは?
チェインバリン「ファロニダ」
さしあたり、私は自分をウィリアム・ウィルソンという名にしておくことにしよう。わざわざ本名をしるして、いま自分の前にあるきれいなページをよごすほどのことはない。その私の名前は、すでにあまりにわが家門の侮蔑のーー恐怖のーー嫌悪の対象でありすぎている。怒った風は、その類いなき汚名を、地球のはてまでも吹き伝えているのではないか?おお、恥知らずな無頼漢(ならずもの)のなかの無頼漢!
(ポー「ウィリアム・ウィルソン」(佐々木直次郎訳)青空文庫より)
W 上の引用は、この小説の冒頭部分です。最初の一文、中野好夫さんの訳では、「そも良心とは?わが行手に立ち阻む、恐ろしの影、良心とは?」(ポオ小説全集1、創元推理文庫、362ページより)となっていますが。やはり冒頭の「良心」という言葉がこの作品のキーワードなんですよね。
K も一人のウィルソンが良心のほうでしょうね、きっと。
W そう、そう。そういうことですよね。前回のフロイトの3層構造で言えば、超自我にあたる部分です。超自我が外部にあって、自分を脅かす。少し、筋を追ってみましょう。
実際、私の熱情的な、熱狂的なまた横柄(おうへい)な気性は、間もなく自分を学友たちのなかでのきわだった人物にさせ、また少しずつ、しかし自然な順序を踏んで、自分よりはさほど年が上ではない者全部に権力を揮(ふる)うようにさせてしまった。――ただし、それにはたった一人だけ例外があった。この例外というのは、なんの縁故もないのではあるが、私自身のと同じ洗礼名と姓とを持っている、一人の生徒なのであった。
(同上)
W この小説の主人公は、同時に話の語り手でもあるんですが、彼の失敗した人生について振り返るという形態を取っています。10代前半の寄宿学校、イートン校、オックスフォード大学、その後のパリやナポリやローマなどでの放埓な生活が回顧されています。いつも自分と同じ名前と誕生日を持った同年配の男が現れて、時々の不道徳なもくろみが、たたき壊されてしまいます。
オックスフォード大学のことを「ヨーロッパじゅうでもいちばん放縦な大学」と書いてあるのが面白いんですけどね。ここで、主人公はいかさまのカードゲームで、学友から金を巻き上げようとしますが、自分と同じ名前の謎の男が現れて、そのいかさまが暴かれてしまいます。
K はい。
学校の言葉で、「我々の仲間」と言っている者のなかで、この私の同名者だけが、あえて学科の勉強でもーー運動場の競技や喧嘩でも私と競争し、――私の断言を盲目的に信ずることや、私の意志に服従することを拒み、――私の専断的な命令になんであろうと事ごとに干渉したのであった。もしこの世に最高無条件の専制政治というものがあるなら、それは一人のぬきんでた子供が、その仲間たちの気の弱い心にたいして揮う専制政治である。
ウィルソンの反抗は、私にはこの上ない当惑の種であった。――人前では彼や彼の言い草を空威張りであしらうようにとくに気をつかったものの、内心では彼を恐れていた。また、彼が私にたやすく対等に振舞っているのは、彼のほうがほんとうは上手である証拠だと思わずにはいられなかっただけ、ますます当惑の種であったのだ。
(同上)
W 上の引用は、10代前半の寄宿学校での生活を描いています。この作品、寄宿学校の寒々とした感じがとてもよく表現されています。主人公は同姓同名の友人と、この学校で初めて出あうんです。主人公は、なに不自由のないお金持ちの家に育ち、性格も活発で、学校で仲間のリーダーというか暴君のような存在になります。
K もう一人の自分は思春期に生まれやすいです。
W 「世に最高無条件の専制政治は、学校の子供たちの間で起こる」とも言ってますよね。前に「風の又三郎」のところで出て来た、谷崎潤一郎の「小さな王国」を思い出しました。
でも、自分と同姓同名のウィリアム・ウィルソンだけは、自分の意のままにならない。谷崎の小説では、こういう子どもが、一人も出てこなかったんですけどね。
K ええ。
たしかに二人はほとんど毎日のように喧嘩をしたが、その喧嘩では、彼は表向きは私に勝利をゆずりながらも、なにかの方法で、ほんとうに勝ったのは彼であることを私に感じさせるようにした。けれども、私の高慢と、彼の真実の威厳とは、いつも二人を「言葉をかわすくらいの間柄」にしていたのであった。一方、二人の気質には実によく似た点がたくさんあって、それが、私に、二人がこんな立場でさえなかったら、おそらくは友情にまでなっていたかもしれないのにと思う気持ちを起させた。
(同上)
実際、彼にたいする私のほんとうの感情をはっきり定義することは、あるいはただ記述することでさえも、むずかしいのである。それは雑多な異質の混合物だった。――憎悪というほどではない短気な怨恨もあり、尊敬の念もいくらかあるし、尊重の気持ちはもっと多くあり、恐れの気持はよほどあり、不安な好奇心はうんとあった。
(同上)
W 語り手の主人公が、愛憎入り混じる同姓同名の同級生について言及している場面です。
K はい。このあたりではまだ相手が同じ顔をしていることに気付いていないんですよね。
彼が私をかばうようないまいましい態度をとったり、私の意志に幾度もおせっかいな干渉をしたりしたことは、すでにくりかえして言ったとおりである。この干渉はときどき不愉快な忠告の性質を持つことがあった。公然とする忠告ではなくて、それとなく言うような、あてつけて言うような忠告である。私はそれをされるのが実に嫌いだったが、その嫌悪は年をとるにつれて強くなってきたのだった。だが、こんなに遠く月日がたったいまとなっては、彼のために当然この一事ぐらいは認めてやりたいと思う。それは、自分の競争者の忠告が、彼のような若い、未熟な者にはごくありがちな、誤りや愚かさに陥っていたことなど、一つも思い出すことができないということ。一般的な才能や世間的な知恵はとにかく、少なくとも彼の道義心は自分よりもずっと鋭かったということ。また、自分があの当時はただあまりに心から憎み、あまりにはげしく軽蔑した、あの意味ふかいささやきのなかの忠告を、あんなに始終拒まなかったならば、いまの自分は、いまよりはもっと善良な、したがってもっと幸福な人間になっていたかもしれない、ということである。
しかしその時はそうではなかった。だから、私はとうとう彼の不愉快な監督にすっかり憤慨してしまい、私には我慢ならないその傲慢さを、日ごとにますます公然と憎むようになった。
(同上)
W ここでは、同姓同名の男の方が、自分より道義心に富んでいたと告白しています。良心の存在に脅かされている。
K はい。
もし自分の記憶が誤っていないなら、大体それと同じころのこと、私は彼と猛烈な争論をしたのであったが、そのとき、彼はいつもよりはずっと警戒の念をすてて、彼としては珍しくあけっ放しな挙動でしゃべったり振舞ったりしたが、その彼の口調や、態度や、全体の様子のなかに、私は最初は自分をぎょっとさせ、それから次には自分に深い興味を与えたあるものを、発見した。あるいは発見したような気がした。というのは、自分のごく幼いころのおぼろげな幻影――記憶力そのものがまだ生まれないころの奇怪な、混乱した、雑然と群がってくる記憶――が自分の心に思い浮かんだからなのだ。私は、自分の前に立っているものとは自分はよほどずっと以前のある時期――無限にとさえ言っていいくらい遥かな過去のあるときーーから知り合っているのだという信念を、なかなか払い落すことができなかった、というより以上に、そのとき自分を襲った気持ちをうまく書きしるすことはできない。
(同上)
W ここも面白いと思います。やっぱり、生まれてすぐに生き別れた双子だったんですよ、きっと。
K それはないです。
W そうか。でも、「双子でない」ことを証明するのは、「名前が同じ」と言うことだけなんですよね。同姓同名であることが、「双子なんじゃないのか?」という疑惑から、主人公を救った。
このあと、この同姓同名の子の寝顔を見たら、自分の顔にそっくりだったのに驚いて、主人公はこの寄宿学校を去りました。
それはウィルソンであった。けれども彼はもうささやきでしゃべりはしなかった。そして私は、彼が次のように言っているあいだ、自分がしゃべっているのだと思うことができたくらいであった。―――
「お前は勝ったのだ。己(おれ)は降参する。だが、これからさきは、お前も死んだのだ、―――この世にたいして、天国にたいして、また希望に対して死んだんだぞ!己のなかにお前は生きていたのだ。―――そして、己の死で、お前がどんなにまったく自分を殺してしまったかということを、お前自身のものであるこの姿でよく見ろ」
(同上)
W 上の引用は、大人になってからの、ローマでの最後の場面です。ここで主人公は、同姓同名の男を殺してしまいました。中野好夫さんの訳もわかりやすい文章なので、並べてみます。
まさにウィルソンだった。だが、もうあの耳語するようなかっての彼ではなかった。そして僕は、ほとんど僕自身がしゃべっているのではないかと錯覚したのだが、はっきりと彼は言った。
「君は勝った。僕は降参する。だが、これからは君ももう死人だ、―――この世に対し、天国に対し、そしてまた希望に対して死人なのだ。―――君は僕の中にあって生きていたのだ。―――その僕の死によってーーーさあ、この僕の姿、取りも直さず君自身なのだが、よく見るがよいーーー結局君がいかに完全に自分自身を殺してしまったかをな」
(ウィリアム・ウィルソン(中野好夫訳)ポオ小説全集1 創元推理文庫1974、392ページより)
W ここの結末の部分、小池さんはどう読みました?
K 結末も含めて全体を通してですが、語り手のほうのウィルソンは自分のなかの良心を分離させていて、それから自由になろうとしていたのだけれど、やっぱり無理でうまくいかなくなるということですかね。
W 僕と小池さんが2人のウィルソンだとしたら、小池さんは、自分がどっちのウィルソンだと思いますか?
K その仮定、ちょっと意味わかりません。
W あはは。前に、このブログで夏目漱石の「野分」という小説を取り上げた時、2人の登場人物のどちらが自分に近いかが話題になって、うまく分かれたじゃないですか。小池さんが白井先生で、僕が高柳君というように。だけど、このポーの小説では、「そんなに簡単には分かれないのかなあ」と僕は思ってました。
K 同じ顔ですし。
W このブログに、小池さんと僕の写真が載ってるじゃないですか。すごく似てるっていう評判ですよ、特に横浜方面では。「どっちが小池さんなんだか分からない」とか。
K ふぅん。
W あと、この「ウィリアム・ウィルソン」に似ている作品というか、連想する小説とか映画ってありますか?
K すぐに連想したのは辻仁成の「ピアニシモ」と道尾秀介の「向日葵の咲かない夏」です。道尾さんは最近活躍している作家ですが、どちらもとても好きな作品です。共通しているのは、主人公が自分にとって重要な架空の存在に頼って生きている点です。
W そうですか。両方とも読んだことないので、ぜひ読んでみます。
「ウィリアム・ウィルソン」関連作品年譜
1839年 ポー ウィリアム・ウィルソン
1846年 ドストエフスキー 二重人格
1886年 スティーブンソン ジーキル博士とハイド氏
1891年 ワイルド ドリアン・グレイの肖像
1967年 ルイ・マル他 世にも怪奇な物語(フランス・イタリア合作映画 「影を殺した男」(原題 William Willson)を収録)
1976年 手塚治虫 MW(ムウ)
W 上の年譜からわかるように、ドストエフスキーはポーの作品から7年後に「二重人格」という長編小説を書いています。岩波文庫で320ページにもなる長い作品ですが。
ポーの作品を3つ集めた、「世にも怪奇な物語」というオムニバス映画もありました。以前、日本のテレビでもよく放映してましたが、現在だとDVDで観ることが出来ます。このエピソードの監督はフランスのルイ・マルで、アラン・ドロンが一人二役を演じていました。映画の元のタイトルは、「William Willson」でしたが、邦題では「影を殺した男」になっていました。「影を殺した男」も感じ出てますけど。
手塚治虫の「MW(ムウ)」という漫画も、この小説の影響があると思うなあ。「ウィリアム・ウィルソン」は「WW」だけど。殺人をはじめ悪いことはなんでもやる主人公と彼を救おうとする神父がでてきます。最近、電子書籍でも読めるようになりました。映画やテレビドラマにもなったんですよね。
K 僕も漫画で読んでいます。
W さっきもちょっと言いましたが、この「ウィリアム・ウィルソン」という小説、やっぱり、双子のことを書いてるんじゃないかしら。「双子の恐怖」というか。自分の存在を脅かす、双子のかたわれが突然現れた。
K いやいや、それだけはないと思います。
W 双子以外の普通のきょうだいでも、この小説のようなこと連想できるのかな?双子と双子以外のきょうだいって、連続してるのかしら?僕は双子以外のきょうだいがいないんで、そのあたり、よくわからないんです。それに、二卵性双生児というのもありますよねえ。自分のことだけど。
K きょうだいの存在が観念的にこの小説のもう一人の自分のような存在になるってことは多いかもしれませんね。
W そうなんだ。聞いてみて良かった。もう一人の自分としてのきょうだい。
僕がきょうだいのことを聞かれて、双子で僕が兄だと答えると、「あとから生まれた方がお兄さんなんでしょ?」という質問が続くことが多いですね。少なく見積もっても100回は聞かれてると思います。でも、親からはなにも言われてないし、別に調べたこともないから、なんとも答えられないんですよ。聞かれると、いつもドキッとする。兄という自覚も全然持てないし。「不思議な感覚」というのが、いちばん正直なところかな。
K 経験がないので分からないですが、それはそうでしょうね。
W あと名前の問題とかもあって、自分の存在って何なんだろうと考えこんじゃうことが多かったですね、特に子どもの頃は。
将棋のプロ棋士に畠山兄弟っていて、双子なんです。2人とも七段で、とても強い棋士なんですけど。お兄さんが成幸さん、弟さんが鎮さんって言うんですけど、ご両親にどうして片方が1文字で、もう一方が2文字なんですかって、今でも聞いてみたい気がします。
それから、僕が大学生の頃、教員免許を取るために行った教育実習先の中学校が双子を集めた学校でした。クラスは別々にしてあるんだけど、休み時間は2人一緒にいる子どもたちが多くて、「仲いいんだな」とうらやましく思いました。一卵性だと、中学生ぐらいになっても、外見はすごくよく似ているんですよね。性格や行動は必ずしも似てないんでしょうけど。
畠山兄弟も外見は良く似ています。でも、テレビで将棋の解説とかしてるのを見ると、性格はずいぶん違うようです。静と動というか。「刑事コロンボ」の「二つの顔」や、「古畑任三郎」の「ラスト・ダンス」に出てくる双子も、外見はそっくりだけど、性格や行動は正反対でしたね。
K いくらおじさんになっても、おじいさんになっても、双子は双子って呼び方なんですね。もう子どもだなんて歳では全然ないのに。
W もうひとつ、「双生児」という言い方がありますけど、これも「児」とついちゃうんですよね。なんか、良い呼び方ないかな。
「ドリアン・グレイの肖像」について
W 最後に、さっき、ちょっとでてきた、オスカー・ワイルドの「ドリアン・グレイの肖像」についても、触れておきましょう。僕、この小説好きなんですよ。新潮文庫版(福田恒存訳)で421ページ、岩波文庫版(西村孝次訳)で370ページもある長編小説ですけど。この作品、まだ青空文庫では読めません。ただ、渡辺温という作家の「絵姿 The Portrate of Dorian Gray」という作品が青空文庫に入っているのですが、これは「ドリアン・グレイの肖像」の要約になっています。そちらから読んでみても、面白いかもしれません。
「あんなにすばらしい人間が年をとってしまうとは、なんという痛ましいことだ」歎息まじりにワイルドが言った。
「まったくだ」とわたしは答えた。「もし『ドリアン』がいつまでもいまのままでいて、代わりに肖像画のほうが年をとり、萎(しな)びてゆくのだったら、どんなにすばらしいだろう。そうなるものならなあ!」
(オスカー・ワイルド「ドリアン・グレイの肖像」(福田恒存訳)新潮文庫、1891=1962、5-6ページより)
「ああ、気がめいる!」自分の肖像画に目を注いだまま、ドリアン・グレイは呟いた。「悲しいことだ!やがてぼくは年をとって醜悪な姿になる。ところが、この絵はいつまでも若さを失わない。きょうという六月のある一日以上に年をとりはしないのだ・・・ああ、もしこれが反対だったなら!いつまでも若さを失わずにいるのがぼく自身で、老いこんでいくのがこの絵だったなら!そうなるものならーーそうなるものならーーぼくはどんな代償も惜しまない。この世にあるどんなものだって惜しくない。そのためなら、魂だってくれてやる!」
(同上 57-58ページより)
W 長編小説ですが、作品の主題は、上の部分に尽きています。ドリアン・グレイという美貌の青年と彼の肖像画の話なんです。人間は年をとってしまうのに、肖像画は年をとらない。それは、おかしいじゃないか。人間と肖像画を反対に出来ないか、というテーマなんですね。人間は若さを保ち、肖像画の方が年をとる。
K これも有名なお話ですね。
W 「ジーキルとハイド」や「ウィリアム・ウィルソン」では、人間が2人に分裂するけど、「ドリアン・グレイ」では、人間と肖像画に分裂する。
K はい。
W ただ、この小説で本当に面白いのは、話の筋ではなくて、オスカー・ワイルドが小説の中にちりばめた、彼のさまざまな主張です。特に、芸術や美、社会と道徳、青年などについての考えが見事なんです。口あけて見とれちゃう感じですね。ごく一部分だけ引用してみます。
批評家とは、美なるものから受けた印象を、別個の様式もしくはあらたな素材に移しかえうる者をいう。
批評の最高にして最低の形態は自叙伝方式にほかならぬ。
美なるものに醜悪な意味を見いだすのは、好ましからざる堕落者であり、それはあやまれる行為である。
(同上 8ページより)
道徳的な書物とか非道徳的な書物といったものは存在しない。書物は巧みに書かれているか、巧みに書かれていないか、そのどちらかである。ただそれだけでしかない。
(同上 8ページより)
思想も言語も芸術家にとっては芸術の道具にほかならぬ。
善も悪も芸術家にとっては芸術の素材にすぎぬ。
(同上 9ページより)
すべて芸術はまったく無用である。
(同上 10ページより)
W 上の部分では、芸術についてのさまざまな考えが述べられています。芸術至上主義と言うのかな。芸術や美が他のなにものにも優先する。でもその上で、「全く無用なものである」と言い切っています。結局、無用なものが、すべてに優先する。
K ほんとだ。
もちろん知的な表情といったものはたしかにある。けれども、美は、真の美というものは、知的な表情の始まるところに終るものなのだ。知性自体すでに誇張の一形式だ、それはどんな顔の調和をも崩しさってしまう。
(同14ページより)
感情を籠めて描いた肖像画というものは、作者の肖像で、モデルの肖像ではないのだ。モデルは偶然のきっかけにすぎない。
(同18-19ページより)
良心も臆病も、もとを糺(ただ)せば、同じものだ。良心は商店の表看板だよ。それだけのことさ。
(同上 21ページより)
いいですか、グレイさん、良き影響などというものはあるはずがない。影響はすべて不道徳なものだーー科学的にいって不道徳なものだ。
(同上 41ページより)
いちど影響を蒙(こうむ)った人間は、自分にとって自然な考えかたもしなければ、自分にとって自然な情熱で燃えあがることもない。美徳にしても本物でなく、罪悪だってーーもし、罪悪などというものがあるとしての話だがーーそれだって借物にすぎない。
(同上 41ページより)
人生の目的は自己を伸すことにある。自己の本性を完全に実現すること、それこそわれわれがこの世に生きている目的なのだ。現代の人間は自分というものに怖れを抱いている。あらゆる義務のなかでも最も高尚な義務、自分自身にたいして負うべき義務を忘れてしまったのだ。
(同上 42ページより)
ただ、社会を怖れる心と,神を怖れる心、前者は道徳の基礎をなし、後者は宗教の秘密にほかならないがーーこのふたつが人間を支配しきっているのだ。
(同上 42ページより)
W 小池さんと今度出す本の中で、オスカー・ワイルドが「人は人に影響を与えることはできない」と書いているとしゃべりましたが、ここではむしろ、悪いこと、不道徳なことだと言ってますね。
K 科学的にいって不道徳ってどういうことですかね。
W 不道徳なのは自明なことであって、議論の余地は無いということでしょうか。
美は表面的なものにすぎぬというひとがある。あるいはそうかもしれない。だが、すくなくとも思想ほど表面的ではないでしょう。ぼくにとっては、美は驚異中の驚異だ。ものごとを外観によって判断できぬような人間こそ浅薄なのだ。この世の真の神秘は可視的なもののうちに存しているのだ、見えざるもののうちにあるのではない・・・・
(同上 50ページより)
W 「常識を疑うことが大切」とか言う研究者がよくいるけど、ワイルドのように本質的なところから疑うことのできてる人って、あんまりいないんじゃないかな。もっと、ちっぽけな常識を疑っている。
K それはそうですね。
あなたが真の人生、完全にして充実した人生を送りうるのも、もうあと数年のことですよ。若さが消えされば、美しさもともに去ってしまう、そのとき、あなたは自分にはもはや勝利がなにひとつ残っていないということに突然気づくーーあるいは、けちな勝利で満足しなければならなくなる、過去を思いだせば、そんな勝利は敗北以上に苦々しいものに感じられるでしょう。ひと月たつごとに、ある怖しい一点に近づいていくのだ。
(同上 51ページ)
若さ!若さ!若さを除いたらこの世になにが残るというのだ!
(同上 52ページ)
W ここの「若さ」と言う訳、原文ではyouthですが、「青春」という訳も多いですね。
「青春!青春!青春をおいてこの世に何が残るというのだ!」(西村孝次訳)というような。「若さ」と「青春」、ニュアンスはちょっと違うけど、どちらの訳も、すばらしいと思うなあ。
「若さを除いたら、この世に何が残るというのだ!」という言い方には、充分同意できます。それに僕自身が「若い人についてこれまで書いてきたことを、一言でまとめて表現してみろ」と言われたら、やはり、このあたりの言い方に落ち着くんじゃないかな。100年以上前に、オスカー・ワイルドに、同じことを言われちゃっている。
(2014年6月 東京・大泉学園にて)
<参考・引用文献>
ポー ウィリアム・ウィルソン(佐々木直次郎訳)18 39
――――― 盗まれた手紙(佐々木直次郎訳)1844
スティーブンソン ジーキル博士とハイド氏(佐々木直次郎訳)18 86
渡辺 温 絵姿(The portrate of Dorian Gray)1928
夏目漱石 野分 1907
(以上 青空文庫より)
ポー ポオ小説全集1、創元推理文庫、1974(「ウィリアム・ウィルソン」中野好夫訳を収録)
――― エドガー・アラン・ポー短篇集(西崎憲編訳)ちくま文庫、2007
――― モルグ街の殺人事件(金原瑞人訳)岩波少年文庫、2002
――― 黒猫(富士川義之訳)集英社文庫、1992
――― 黒猫・アッシャー家の崩壊(ポー短篇集Ⅰ・ゴシック編)(巽孝之訳)新潮文庫、2009
ドストエフスキー 二重人格(小沼文彦訳)岩波文庫 1846=1954
ワイルド ドリアン・グレイの肖像(福田恒存訳)新潮文庫 1891=1962
―――― ドリアン・グレイの画像(西村孝次訳)岩波文庫 1891=1936
手塚治虫 MW(ムウ)(1-3)小学館 1976=1978
谷崎潤一郎 美食倶楽部 ちくま文庫 1989(「小さな王国」を収録)