2013年10月13日日曜日

第37章 山月記

--山月記」は作家の中島敦が1942年(昭和17年)に雑誌「文学界」に発表した短編小説。中国の李景亮の作品「人虎伝」をもとに作られた。中島は当時33歳であったが、この年の12月に病死した。(まとめ・渡部)--

W 今回は中島敦の小説「山月記」です。この作品、いろいろな文庫に入っていますが、文春文庫ですと12ページ、角川文庫では11ページです。とても短い小説ですね。中島は東京帝国大学の国文科を出たあと、亡くなる一年前まで横浜の女学校の教師をしていたようです。小池さんは、この「山月記」という小説のこと、知ってましたか?
K ええ、教科書に載っていました。国語の授業で読んで、とても印象に残っています。
W 僕も高校の国語の教科書に載っていて読みました。僕が1960年代、小池さんが1990年代だったわけだけど、二人とも教科書で出会った小説って珍しいですよね。もちろん、高校の教科書は何種類もあるから、この作品が載ってなかった教科書もあるんでしょうけど。
K このブログで取り上げた作品では、はじめてじゃないですか。
W あとは、太宰治の「富嶽百景」ぐらいかな、二人が高校の教科書で読んだ小説って。「富嶽百景」が1939年(昭和14年)、「山月記」が1942年(昭和17年)と3年しか違わないんですけどね。この2つの作品に共通する点って、なにかあるのかな?どういう基準で作品が教科書に選ばれるのか、と言い換えても良いんですけど。
K どちらも都会から山の中に行く話ですね。
W あはは。そんなこと言うと、山梨県の人に怒られちゃうかもしれませんよ。やっぱり、文章がすぐれてるってことじゃないかしら。名刀の切れ味っていうか。
「山月記」、僕も初めて読んだ時、とても強い印象を受けました。いくつかの箇所は、文章をそのまま覚えていました。なにしろ名文ですよね。それは、40年以上前の高校生にもよくわかりました。「これはすごい」って思いました。
K 僕は当時、小説の一部が教科書に載っているんだと思っていましたが、今回読み返したら思ったより短かったので、あれで全文だったのかもしれないなと思いました。
W そうかもしれませんね。中島敦の作品は、青空文庫に現在28点入っています。彼は33歳で亡くなっているし、作品数も少ないようです。「山月記」「名人伝」のように昔の中国に題材を求めた作品も良いですが、僕は「光と風と夢」という小説も好きです。芥川賞の候補になったらしいんですが。「宝島」や「ジキル博士とハイド氏」で有名なイギリス人の作家、スティーブンソンのサモア島での生活を描いたものです。中島も晩年の約一年間、南島のパラオ島というところで役人として働いていました。
K パラオ島での生活の影響がこの山月記なんかにもあるんですかね。
W 「山月記」が発表されたのは、中島が死んだ年なんですが、実際にいつ書かれたのかは、よくわかっていないようです。  

隴西の李徴は博学才穎、天宝の末年、若くして名を虎榜に連ね、ついで江南尉に補せられたが、性、狷介、自ら恃むところ頗る厚く、賤吏に甘んずるを潔しとしなかった。いくばくもなく官を退いた後は、故山、に帰臥し、人と交を絶って、ひたすら詩作に耽った。下吏となって長く膝を俗悪な大官の前に屈するよりは、詩家としての名を死後百年に遺そうとしたのである。しかし、文名は容易に揚らず、生活は日を逐うて苦しくなる。李徴は漸く焦躁に駆られて来た。この頃からその容貌も峭刻となり、肉落ち骨秀で、眼光のみ徒らに炯々として、曾て進士に登第した頃の豊頬の美少年の俤は、何処に求めようもない。数年の後、貧窮に堪えず、妻子の衣食のために遂に節を屈して、再び東へ赴き、一地方官吏の職を奉ずることになった。一方、これは、己の詩業に半ば絶望したためでもある。曾ての同輩は既に遥か高位に進み、彼が昔、鈍物として歯牙にもかけなかったその連中の下命を拝さねばならぬことが、往年の儁才李徴の自尊心を如何に傷けたかは、想像に難くない。彼は怏々として楽しまず、狂悖の性は愈々抑え難くなった。一年の後、公用で旅に出、汝水のほとりに宿った時、遂に発狂した。或夜半、急に顔色を変えて寝床から起上ると、何か訳の分らぬことを叫びつつそのまま下にとび下りて、闇の中へ駈出した。彼は二度と戻って来なかった。附近の山野を捜索しても、何の手掛りもない。その後李徴がどうなったかを知る者は、誰もなかった。
                      (中島敦「山月記」より)

W 上の引用は、最初の段落の全部です。このブログで取り上げた作品、全般に言えることだけど、書出しがすばらしいんですよね。
K 展開が速いというか、簡潔な背景の説明ですね。この小説が短くまとまっている要因はここにあると思います。
W 余計なことは何も書いてない。文章は漢文調で漢字も多くて、一見黒々しています。高校生にとっては決して読みやすくない、難しい文章に思えるんだけど、なぜかスーッと入り込める。明快で、読んでて気持ちの良い書きっぷりです。
K 声に出して読みたくなる感じです。
W なるほど、そうですね。この一つの段落で、主人公の李徴の若い頃から発狂して行方不明になるまでを、走り抜けるようなスピードで説明しています。この部分で印象に残ったところありました?
K やっぱり再び官吏に就いた後、自尊心が傷ついて発狂しちゃったというところです。
W この李徴という人は、もともと優秀でかつ内向的な人だったんですね。当時、社会で立身出世するには、試験に合格して官吏になるのが第一の道だった。李徴もその道を選んだわけですが、「自ら恃むところ頗る厚く、賤吏に甘んずるを潔しとしなかった」わけです。「下吏となって長く膝を俗悪な大官の前に屈する」のが嫌だった。今の若い人が、職を得て会社や役所に入った後に感じる失望感や絶望感、徒労感に通じるものがあるんじゃないかしら。
K そうでしょうね。
W フランスの作家、バルザックの「役人の生理学」という面白い本を思い出しました。官吏の生活のむなしさ、味気なさが書いてあるんだけど。
李徴は、職を辞します。「人と交を絶って、ひたすら詩作に耽った」「詩家としての名を死後百年に遺そうとした」わけです。このあたり、とてもよくわかります。しかしなかなか、文名は上がらず、生活も苦しくなる。そこで妻子のためにも、一地方官吏の職を得るわけです。ここで得た職は、最初の職より、そうとう条件が悪かったんでしょうね。
K 条件もそうでしょうけど、自分より下にみていた人の部下になって命令される立場のほうが彼にとってはつらかったと書かれていると思います。
W 当然、李徴は毎日の生活がおもしろくないわけです。プライドがずたずたになってしまう。公用で出た旅先で発狂し、行方不明になってしまいました。
K 胸が痛いですね。

虎は、あわや袁傪に躍りかかるかと見えたが、忽ち身を翻して、元の叢に隠れた。叢の中から人間の声で「あぶないところだった」と繰返し呟くのが聞えた。その声に袁傪は聞き覚えがあった。恐懼の中にも、彼は咄嗟に思いあたって、叫んだ。「その声は、我が友、李徴子ではないか?」袁傪は李徴と同年に進士の第に登り、友人の少なかった李徴にとっては、最も親しい友であった。温和な袁傪の性格が、峻峭な李徴の性情と衝突しなかったためであろう。
(中島敦「山月記」より)

W 李徴の友人が、官僚になって旅先で虎に逢う場面です。「あぶないところだった」という言葉に光があたります。
K ここは、ちょっと。一言聴いただけで、すぐに昔の友人の声だと気づいたりできますかね。
W 僕は小池さんの声聞くと、わかりますよ。ああ、あの人だって。知人が少ないからなあ。李徴も、ほとんどいなかったんですよ、きっと。
それから、もうひとつ思ったのは、「友人って、少し性格が違う方がうまくいくのかな」、ってことですね。
K というか、まあ李徴にあう人はこういう温和な人だけだってことではないですか。
W Wさんにあう人は、Kさんぐらいだけ、みたいな。

 他でもない。自分は元来詩人として名を成す積りでいた。しかも、業未だ成らざるに、この運命に立至った。曾て作るところの詩数百篇、固より、まだ世に行われておらぬ。遺稿の所在も最早判らなくなっていよう。ところで、その中、今も尚記唱せるものが数十ある。これを我が為に伝録して戴きたいのだ。何も、これに依って一人前の詩人面をしたいのではない。作の巧拙は知らず、とにかく、産を破り心を狂わせてまで自分が生涯それに執着したところのものを、一部なりとも後代に伝えないでは、死んでも死にきれないのだ。
                     (中島敦「山月記」より)

W 二人は身の上話をするんですが、李徴は「自分の詩歌を聞いて欲しい」と言うんです。「一部なりとも後代に伝えないでは、死んでも死にきれない」とつぶやきます。気持ちはよくわかるけど、せつないなあ。
K そうですか、わかりますか。
W 「名利」って言葉があるでしょう。もともと仏教用語なんでしょうけど、「名誉や利益、また、それらを求める気持ち」のことです。官僚になって出世したり、お金持ちになるのは「利」を求めるわけで、李徴は、若い頃に、そういう気持ちを捨てた。でも、虎になっても「名」の方は諦められない。
K もともと名をとるために利を捨てたわけですしね。
W 僕も、「50年、100年後に何らかの形で名前が残ったらいいなあ」とか言うと、小池さんに「くだらない」って笑われますよね。そこのところ、今も自分の中では、解決できていないんです。情けない話なんだけど。だから、この話は身につまされます。
K それでよく「死んだら伝記を書いてくれ」っておっしゃるんですね。
W あはは。言ったかな、そんなこと。ちょっと、それは怖いな。なに書かれるか分からない。「利」も「名」も実は、おんなじようなものなんでしょうけどね。なかなか、そこがさとれない。

袁傪は部下に命じ、筆を執って叢中の声に随って書きとらせた。李徴の声は叢の中から朗々と響いた。長短凡そ三十篇、格調高雅、意趣卓逸、一読して作者の才の非凡を想わせるものばかりである。しかし、袁傪は感嘆しながらも漠然と次のように感じていた。成程、作者の素質が第一流に属するものであることは疑いない。しかし、このままでは、第一流の作品となるのには、何処か(非常に微妙な点に於て)欠けるところがあるのではないか、と。
旧詩を吐き終った李徴の声は、突然調子を変え、自らを嘲るか如くに言った。
 羞しいことだが、今でも、こんなあさましい身と成り果てた今でも、己は、己の詩集が長安風流人士の机の上に置かれている様を、夢に見ることがあるのだ。岩窟の中に横たわって見る夢にだよ。嗤ってくれ。詩人に成りそこなって虎になった哀れな男を。(袁傪は昔の青年李徴の自嘲癖を思出しながら、悲しく聞いていた。)
            (中島敦「山月記」より)

W 上に引用したところ、高校生の時も、はっとしたんですけど。友人が李徴の詩を聞いて、なにか、第一流の作品になるには、どこかに欠けた所があるのではないか、と感じるんですよね。残酷と言えば、残酷な話なんだけど。
K さすがに本人には言いませんけどね。
W やだなあ、その発言。
K こんな感動的な場面なのに、作品を評価する点では、すごく冷静になるという感じ、よくわかるような気がします。
 
何故こんな運命になったか判らぬと、先刻は言ったが、しかし考えように依れば、思い当たることが全然ないでもない。人間であった時、己は努めて人との交わりを避けた。人々は己を倨傲だ、尊大だといった。実は、それが殆ど羞恥心に近いものであることを、人々は知らなかった。もちろん、曾ての郷党の鬼才といわれた自分に、自尊心が無かったとは云わない。しかし、それは臆病な自尊心とでもいうべきものであった。己は詩によって名を成そうと思いながら、進んで師に就いたり、求めて詩友と交って切磋琢磨に努めたりすることをしなかった。かといって、又、己は俗物の間に伍することも潔しとしなかった。共に、我が臆病な自尊心と、尊大な羞恥心との所為である。己の珠に非ざることを惧れるが故に、敢えて刻苦して磨こうともせず、又、己の珠なるべきを半ば信ずるが故に、碌碌として瓦に伍することも出来なかった。己は次第に世と離れ、人と遠ざかり、憤悶と慙恚とによって益々己の内なる臆病な自尊心飼いふとらせる結果になった。
(中島敦「山月記」より)

W ここでは、自分の人生について、主人公が反省しているところです。「人との交わりを避ける」「切磋琢磨しない」「羞恥心」「自尊心」とかが出てくるわけで、人ごととは思えない。高校の教科書で読んだ時も、ここの部分に一番引っかかりました。屈折した高校生だったんですね、顔は可愛かったけど。
K 最後の臆病な自尊心を飼いふとらせるっていう表現は、いいですね。僕も身につまされます。

人間は誰でも猛獣使であり、その猛獣に当たるのが、各人の性情だという。己の場合、この尊大な羞恥心が猛獣だった。虎だったのだ。これが己を損い、妻子を苦しめ、友人を傷つけ、果ては、己の外形をかくの如く、内心にふさわしいものに変えて了ったのだ。今思えば、全く、己は、己の有っていた僅かばかりの才能を空費して了った訳だ。人生は何事をも為さぬには余りに長いが、何事かを為すには余りに短いなどと口先ばかりの警句を弄しながら、事実は、才能の不足を暴露するかも知れないとの卑怯な危惧と、刻苦を厭う怠惰とが己の凡てだったのだ。己よりも遥かに乏しい才能でありながら、それを専一に磨いたがために、堂々たる詩家となった者がいくらでもいるのだ。虎と成り果てた今、己は漸くそれに気が付いた。それを思うと、己は今も胸を灼かれるような悔を感じる。
(中島敦「山月記」より)

W ひとつ前の引用のところで、あと「怠惰な精神」というか「怠け心」を入れれば、そのまま、ぴったり自分に当てはまってしまうなあ、と思っていたら、ここの引用の部分に、ちゃんと書いてあるんですからねえ。困った、困った。
K ほんとだ、ほんとだ。
W 僕の若い頃の口癖が、「僕は、まだ何も一生懸命やったことがない」でした。「だから、大丈夫なんだ」「一生懸命やりさえすれば」と自分を励ましていたんだろうけど。
K 漫画原作で、最近映画になった「俺はまだ本気出してないだけ」って知ってます?
W それは、知りません。僕の方が先だな。こんなところで、著作権を主張しても仕方ないんだけど。
ここで、主人公の李徴が命をかけてるのは、詩作なんですよね。こういうことについても、偉い先生につくとか、ライバルとの切磋琢磨とか必要なのかしら?僕は、そこが昔から、ずっと疑問だったんです。この小説の主人公は、結局、そうなんじゃないかと言う結論に達するわけですが。小池さんはどう思います?
K 詩作のことは詳しくないですが、詩に限らず、うまくいかないときはどういうやり方をしていても反対のやり方をしていればよかったって後悔するものではないでしょうか。偉い先生についていて、うまくいかないときは、自主独立でもっと自由にやるのが正解だったんだって思ったり。
W もちろん、有力な知人がいれば、引き立ててもらったり、有利になる事はあると思うけど、そのことと、本人がどんな創作物を作るかと言う事は、別の話じゃないのかな。研究者の研究も同じじゃないかと僕は思ってるんですけどね。先生も友人もいない、孤独な作業だって。もし、この小説に違和感があるとすると、僕の場合、このあたりの主人公の述懐なんです。もし、この通りだとしたら、本当に救いがないよなあ、と思ってしまいます。でもやっぱり、切磋琢磨は大事なのかな?
K どんな創作物を作るかと言うことは、有力な知人がいるかどうかと別の話かもしれませんが、それがどう評価されるかには、有力な知人とかたくさんの知人がいるかどうかと関係するんじゃないですか。
W そうですね。第33章で取り上げた堀辰雄の「聖家族」で、小林秀雄の好意的な批評を取り上げたでしょ。あの時は知らなかったんだけど、当時、堀と小林は同じ文学仲間で仲良かったみたいなんです。それなら、褒めますよね。やっぱり、友人知人が全部死んだ100年あとぐらいじゃないと、本当の評価は出来ないのかもしれません。

最早、別れを告げねばならぬ。酔わなければならぬ時が、(虎に還らねばならぬ時が)近づいたから、と、李徴の声が言った。だが、お別れする前にもう一つ頼みがある。それは我が妻子のことだ。彼等は未だ虢略にいる。固より、己の運命については知る筈がない。君が南から帰ったら、己は既に死んだと彼等に告げて貰えないだろうか。決して今日のことだけは明かさないで欲しい。厚かましいお願いだが、彼等の孤弱を憐れんで、今後とも道塗に飢凍することのないように計らって戴けるならば、自分にとって、恩倖、これに過ぎたるは莫い。

本当は、先ず、この事の方を先にお願いすべきだったのだ、己が人間だったなら。飢え凍えようとする妻子のことよりも、己の乏しい詩業の方を気にかけているような男だから、こんな獣に身を堕すのだ。
(中島敦「山月記」より)

W たしかに、家族の事は最後に出て来て、そうした自分の姿にまた苦しむわけです。とにかく、この主人公にとって、最も大切なのは詩作で、出来たら、後世に名を残したい。それに比べれば、世俗の世界の出世も、豊かな生活も、家族の事も頭に浮かばない。だけど、結局、友人に「一流じゃないんじゃないか」と思われてしまう。残酷な話です。
K ええ、せつないですね。
W 小池さんは、この小説、ほかにおもしろいとこありましたか?
K 李徴がだんだん人間の心を失っていく過程で、「己の中の人間の心がすっかり消えて了えば、恐らく、その方が、己はしあわせになれるだろう」って言うんです。最後はっきりとは書かれていないですが、袁傪と別れてその後、李徴は本物のただの虎になったんだろうなと読みました。そうすると人間の煩悩から逃れて幸せになれたということなのかなとも思いますが、それは死んだら楽になるということとほとんど同じことですね。そのあたり、どう思いますか?
W そうですね。「虎って何かを象徴してるのかな」ってずっと考えていたんですけど、やはり、人が死ぬ事じゃないかなと思えました。今の話だと、「まだ成仏できてない虎」と、「成仏できた虎」ってことですかね。
成仏できないと、こっちの世界に戻って来ることができる。最近でも、映画でよくありますよね。死んだ人間が現世に戻って来て、生きている人間と会話する話。僕は大林宣彦監督の「ふたり」っていう映画が好きなんです、少女趣味だけど。あれも、死んだお姉さんが、高校生の妹のところに幽霊になって帰って来て、二人でいろいろ話をするんだけど、最後の方で、「もう、これからは来れないんだ」ってお姉さんが言うんですよ。さすがに涙が出てきましたね、あそこは。 
K 僕にはいまいち良さがわらないですね、あの映画。
W あと、これはこのブログでとりあげたほかの小説でも思った事なんですけど、作者と主人公の関係って、どうなんでしょうね。私とか僕と言う言葉を使った一人称の小説か否かだけじゃなくて。この小説で言うと、中島敦と李徴の関係と言う事なんですが。
K すくなくとも作者のなかにも李徴に似た部分があると自覚していると思いますね。
W そうでしょうね。それが、この小説を書く原動力になった。
K ええ。
W それから、角川文庫に「山月記」も入った中島敦の本があるんですが、その巻末に李景亮という人の「人虎伝」という短い小説の読み下し文が載っています。最近、初めてこれを読んだんですけど、正直ちょっとびっくりしました。
K どのあたりについてですか?
W 「人虎伝」と「山月記」が実によく似ているんです。「隴西の李徴は皇族の子なり。」から始ってるんですけど。太宰治の「新ハムレット」はシェークスピアの「ハムレット」を改変したものですが、それと比べてみても「人虎伝」と「山月記」は似ています。
K 「山月記」は「人虎伝」からヒントを得ているんですね。昔の小説にはそういうことが多いんじゃないですか?

 「山月記」も「古俗」も、それぞれりっぱな短編的構成を持っている。いわゆる創作、虚構にたくみな芥川的短編の外貌を持ってはいる。しかしこれらはけっしてフィクションではない。とりわけ作者中島にとっては、フィクションではない。中国の古典を忠実に、かつ謙虚に、自分の心を打つ記録として受け取っている以上、そこには彼の虚構をたくましくする創造的工夫は、きわめてわずかしか働いていないのだ。(後略)
                  (武田泰淳「中島敦の狼疾について」より)

W作家で、中国文学に詳しい武田泰淳は、このあたりの事情を上のように述べています。中島にとって、「自分の心を打つ記録」として「人虎伝」があったのでしょう。森鴎外の史伝「渋江抽斎」や、太宰でも「正義と微笑」「斜陽」には、作品のもとになった詳細な資料があって、小説本体とよく似ている所もあるみたいですからね。
たしかに、そのあたりの資料の取り扱いの問題が、随分違ってきているのかもしれません。現在だと、ちょっとやっかいな問題が出てくるかも知れませんが。今と昔では、そのあたりの考え方が、かなり違うようです。
K ええ。
W ところで、昨日、慶應大学で開かれた日本社会学会の大会を見に行きましたよね。
K はい。
W 井上俊先生に、3人の若手の研究者が質問をして、井上先生がそれに答えるという部会がありましたけど、あれはどうでしたか?
K 面白かったですね。
W 僕は、とてもすばらしいなあと思いながら聞かせてもらいました。文学と社会学の関係や、鶴見俊輔や作田啓一についての話が中心でしたが、3時間があっという間にたってしまいました。実は、生の井上俊を見たのは初めてだったんですけど。
K 学会のセッションに出ているというより、井上先生を主人公にしたドキュメンタリー映画を見ているような気分でした、
W 井上先生の心優しいところや、若者を力強く信頼していこうという意思がとても強く感じられました。素敵なコンサートを聞いたあとのような余韻がいつまでも残りました。学会の大会を聞きに行って、ああいう経験が出来るのは、とても珍しい事だと思います。

201310月  東京・大泉学園にて)     

<参考・引用文献>
中島敦  山月記 1942
――――  李陵 1942  
――――  名人伝 1942
――――  光と風と夢 1942
太宰治  富嶽百景 1939  
―――  新ハムレット 1941 
―――  正義と微笑 1942
―――  斜陽 1947
森鴎外  渋江抽斎 1916
(以上  青空文庫より)

中島敦  李陵 山月記  文春文庫  2013 (解説 篠田一士)
―――  李陵・山月記・弟子・名人伝  角川文庫 1968(解説 氷上英広)
武田泰淳「中島敦の狼疾について」(上記、角川文庫版に収録) 
李景亮  人虎伝(都留春雄による読み下し文)(上記、角川文庫版に参考文として収録) 
バルザック 役人の生理学(鹿島茂訳)新評論、1987

渡部真  姉への追憶――大林宣彦「ふたり」『私説・教育社会学』世界思想社、2010