2012年9月18日火曜日

第24章 ロミオとジュリエット


--ロミオとジュリエット」は、イギリスの劇作家ウィリアム・シェイクスピアが1595年頃に書いた戯曲。舞台は、イタリアの都市ヴェローナ。仇敵である2つの名家の若い男女が舞踏会で出会い、激しい恋におちる。しかし、いくつかの偶然と行き違いから、悲惨な最期をむかえてしまう。(まとめ・渡部)--

 

W 今回は、シェイクスピアの戯曲「ロミオとジュリエット」です。戯曲というのは芝居の脚本・台本のことですね。シェイクスピアには37の戯曲と「ソネット集」をはじめとしたいくつかの詩があります。この連載で是非一度、シェイクスピアを取り上げたいと思っていたんです。なぜ「ロミオとジュリエット」にしたか、わかりますか?

K はい、よくわかります。青空文庫には、まだこの作品しか入っていないからですね。

W そうなんです。公開準備中の作品は10以上あるみたいですけど。37の作品中、僕は20以上は読んだことがあるんですが、この「ロミオとジュリエット」は未読でした。そこで、今回初めて読んでみました。小池さんは読んだことあったんですか?

K いや、なかったですね。ディカプリオがでてた映画は観たことありますよ。

W シェイクスピアの「ロミオとジュリエット」ってあまりに有名ですよね。僕の場合、有名すぎて読むのに躊躇していたというところもあります。「ええ?ロミオとジュリエット!?」って感じで。生きているうちに読めてよかった。

K わかりますね、その感じ。

W オペラやバレエの作品にもなったし、何度も映画化されています。ミュージカルや映画の「ウエストサイド物語」もこの作品の翻案ですね。日本では、人形浄瑠璃や歌舞伎の「妹背山女庭訓」(いもせやまおんなていきん)の「山の段」(歌舞伎では「吉野川の場」)が、この作品をもとに作られたのではないかといわれています。1771年初演というから江戸時代の中期ですけどね。シェイクスピアの「ロミオとジュリエット」が、何らかの形でヨーロッパから鎖国中の日本に伝わったようです。

K へー。

W 「AとB」というタイトルで、そこに男の人と女の人の名前が入る作品って古今東西、たくさんありますが、「ロミオとジュリエット」って、一番有名なんじゃないかな。シェイクスピアには、あと「アントニーとクレオパトラ」「トロイラスとクレシダ」「ヴィーナスとアドーニス」(詩篇)があります。最後のは女性、男性の順番になっていますが、

K この青空文庫の坪内逍遥訳の「ロミオとジュリエット」、とっても読みにくかったですよ。僕は文庫本も一冊買って、そっちも参照しました。平井正穂の訳(岩波文庫)でしたけど。

W この作品の日本語訳、現在では10種類以上ありますが、たしかに坪内本は、古いだけあって、一番読みにくいかもしれませんね。太宰治が「新ハムレット」という作品の中で次のように書いています。

 

なお、作中第二節に、ちょっと坪内博士の訳文を、からかっているような数行があるけれども、作者は軽い気持ちで書いたのだから、博士のお弟子も怒ってはいけない。このたび、坪内博士訳の「ハムレット」を通読して沙翁の「ハムレット」のような芝居は、やはり博士のように大時代な、歌舞伎調で翻訳せざるを得ないのではないかという気もしているのである。

 沙翁の「ハムレット」を読むと、やはり天才の巨腕を感ずる。情熱の火柱が太いのである。登場人物の足音が大きいのである。なかなかのものだと思った。この「新ハムレット」などは、かすかな室内楽に過ぎない。

(太宰治「新ハムレット」より)

 

W 沙翁(さおう)というのは、シェイクスピアのことですね。

K「坪内博士の訳文をからかっている」というのはどこですか?

W 次のところです。ハムレットの恋人のオフェーリアが兄のレヤチーズとしゃべっています。

 

レヤ。「(前略)あんまり居眠りばかりしてないで、たまにはフランスの兄さんに、音信をしろよ。」

オフ。「すまいとばし思うて?」

レヤ。「なんだい、それあ。へんな言葉だ。いやになるね。」

オフ。「だって、坪内様が、――-」

レヤ。「ああ、そうか。坪内さんも、東洋一の大学者だが、少し言葉に懲り過ぎる。すまいとばし思うて?とは、ひどいなあ。媚びてるよ。いやいや、坪内さんのせいだけじゃない。お前自身が、このごろ少しいやらしくなっているのだ。気をつけなさい。兄さんには、なんでもわかる。(後略)」     

(「新ハムレット」より)

 

W「新ハムレット」が書かれたのは1941年(昭和16年)ですけど、その頃にはもう古い訳文だと思われていたんですね。でも、坪内逍遥の訳って、とってもいいところもあるんです。

K 太宰が言っている「歌舞伎調」というところですか?

W それもあるんだけど、青空文庫の坪内訳って、総ルビなんですよ。今時、総ルビって、とても珍しいですよね。出てくる漢字全部にルビが振ってある。その点は、とても良いと思うんです。特に声を出して読む時、漢字が読めなくて中断したりしないし、自信を持って読める。

たとえば「方」という漢字が出てきた時「ほう」とも「かた」とも読めるでしょ。でも書いた人はどちらかに決めて書いているはずなんです。「ここは、『かた』と読んでほしい」、というように。でも今の表記法じゃ、どちらで読むべきか、読者は最終的に自分で決定するしかないんです。今度、二人で「全日本・総ルビ推進協議会」でも作りましょうか。会長にしてあげますよ。

K あんまり興味ないですね。一人でやってください。でも先生は、声を出して本を読んだりするんですか?なんか人迷惑ですね。

W 大学院生の頃、先輩で、論文でも本でも声に出して読むと良いと言ってた人がいて、まねしたことがあります。声に出して読みやすい文章は頭にも入りやすいんです。

「解註・謡曲全集」(野上豊一郎編)という6巻本があって、200以上の能の台本が全部、総ルビで載っています。その本はまあ、声を出して読むこともありますね、今でも。もちろん、まわりに人がいないことを確認してからですが。

 それじゃあ、「ロミオとジュリエット」の筋をすこし追ってみましょうか。この作品は5幕24場からできています。まず口上役という人が出てきて、簡単に芝居の内容を説明します。

 

死(し)の影(かげ)の附纏(つきまと)ふ危(あや)ふき戀(こい)の履歴(りれき)、子等(こら)が非業(ひごふ)に果(は)てぬるまでは、如何(いか)にしても解(と)けかねし親々(おやおや)のいかり、是(こ)れぞ今(いま)より二時間(にじかん)の吾等(われら)が演劇(えんげき)、御心長(みこころなが)く御覧(ごらん)ぜられさふらはば、足(た)らぬ所(ところ)は相励(あいはげ)みて償(つぐの)ひ申(まう)さん。

序詩役(じょしやく)入(はい)る

(シェイクスピア「ロミオとジュリエット」坪内逍遥訳より)

 

死の影に怯えとおした二人の恋の一部始終、そしてまた、愛する子供たちの非業の最期がなければ、いつ止むとも知れなかった親たちの怨恨の一部始終、これが今から二時間にわたって演じます舞台の仕事でございます。どうかよろしくご清聴をわずらわせたく、作者の意足らざるところは、われら俳優懸命につとめ補う所存でございます。

(口上役退場)

(同上  平井正穂訳より)

 

W 引用したのは、口上の後半部分です。上が、坪内逍遥の訳、下が平井正穂の訳です。今回は、平井さんの訳も適宜、参照させてもらいます。

K やっぱり下のほうが分かりやすいですねえ。

W 口上は、歌舞伎でも「仮名手本忠臣蔵」とかいくつかの芝居に残っています。この「ロミオとジュリエット」の口上の大きな特徴は、「愛する子供たちの非業の最期」と芝居の結末を大胆に言いきってしまっていることですね。これは、作り手によほどの自信がないとできません。最初から手の内を全部見せてしまうんですから。「この芝居は、筋で売るんじゃない」「それ以外に観てもらいたいものがあるんだ」と宣言しているわけです。もちろん、当時この話が人々に広く知られていたということもあるんでしょうが。シェイクスピアの芝居は、同時代の人だったら誰でも知っているような元ネタがある場合が多かったんです。彼はそれをアレンジした。

K 「今より二時間の吾等が演劇」と上演時間をはっきり言っちゃうのも面白いですね。

W この作品は、524場だから、120分だと「一場平均5分」と言うことになりますね。実際にいろいろなシェイクスピアの芝居を見ていても、すごくスピード感があって、すぐに次の場面に移ってしまうことが多いんです。さっきの歌舞伎の「妹背山・吉野川の場」なんて、その1場だけで2時間かかりますからね。やはり、作り方が全然違う。

K 歌舞伎はなんかゆっくりしゃべりますもんね。

W そう。同じ古典劇だけど、シェイクスピア劇は早口で、歌舞伎はゆっくり。

まず第1幕です。ロミオの家とジュリエットの家は、ともにヴェローナの名家なんですが、仲が悪く使用人は喧嘩ばかりしています。しかしロミオは何かに悩んでるらしく、そうした喧嘩騒ぎには無頓着です。友人が悩みの理由を尋ねると、しぶしぶ恋愛問題だと打ち明けます。ロザラインという女性に恋していたんです。

 そのあと、ジュリエットの家で開かれた舞踏会にロミオや友人も紛れ込み、若い二人ははじめて出会います。お互いに一目ぼれで、ロミオはそれまで恋焦がれていたロザラインのことは忘れてしまいます。ロザラインからジュリエットにのり換えちゃうあたり、小池さんはどう読みました?

K まあ唐突だなあと。唐突なのはここだけじゃなくて全体を通してですけどね。それからロミオっていうのは、思い込みの強い人ですね。

W あはは、そうかな。そのあと、二人は愛する相手が仇敵の家の子供であることを知ってしまいます。

今回、印象に残ったセリフを18ほど取り上げて番号をつけてみました。第1幕では①から④までです。

 

   人生に倦み疲れたときには自分一人でも多すぎて、できるだけ人に見られない孤独な場所を求めたくなるもの。(ベンヴォーリオ  1幕1場)

 

    僕は路に迷ってしまった男、ここにいるのは僕ではない。ここにいるこの男はロミオではない、あいつはどこかほかの所にいる。(ロミオ  1幕1場)

 

    まだ分からんのか。新しい火がかっかと燃えると今までの火が消える。苦痛も別な苦痛の激しさにあえば軽くなる。目まいがしたら、逆にまわればなおる。死ぬほどの悲しみも別な形の悲しみに打ち拉(ひし)がれれば軽くなる。そこでだ、君もその眼に何か新しい病気をうつしてもらえればいい、古い病気のはげしい毒素もたちまち消えてゆくはずだ。(ベンヴォーリオ  12場)

 

    俺は、今宵初めてほんとうに美しい女を見たのだ! (ロミオ  15場)

(「ロミオとジュリエット」より  以下すべて平井正穂の訳(岩波文庫)による。)

 

W ①②③は、まだロミオがロザラインに恋焦がれている頃の様子です。④はジュリエットに逢ったあとの述懐ですね。このあたりどうですか。

K いちいち大げさな人たちですね。

W 恋愛って、今はもっと日常的なものなのかな。「この間、別れました」みたいな。ちょっとした出来事というか。

僕は①の「人生に倦み疲れたときには自分一人でも多すぎて」というセリフが好きなんです。とてもよくわかると言うか。その場から自分を消してしまいたくなる。まして、人の所へ相談に行って人間の数を増やしてしまうなんてとんでもない、ということになります、自分一人でも多すぎるんだから。まあ、このあたりは人によって違うんでしょうけど。

K 「自分一人でも多すぎて」といった時は、どうしてますか、先生は?

W 今だったら、強いお酒を飲んで寝ちゃいますね。僕はいろんなことに、うかつな人生で、お酒がよい睡眠薬になるって、最近まで知らなかったんです。まあ、若い頃はあまりお酒自体、飲まなかったんですけど。でも、本当に大きな悩み事があると、どうやっても眠れなかったりしますよね。小池さんは、どうやって解決してます?

K 僕も同じです。お酒を飲みますね。

W ③の「悩み事があるときは、他の悩み事を持ってくると良い」というのも、面白いですね。普通だと、何か楽しいことを持ってくると良いと考えるんだろうけど。ぼくは違う悩みを持ってくる方が有力な気がします。悩みが悩みを消し去ってしまう。楽しみより、他の悩みの方が力は強いんじゃないかな。

K そうかもしれませんね。

W この応用で、「いつも具体的で、かつ致命的ではない悩みを抱えておく、まえもって用意しておく」というのも、精神衛生上は良いように思います。とんでもなく大きく抽象的な悩みにとらわれにくくなる。「なぜ生きていかなきゃならないんだろう」みたいな。僕の場合、晴天よりどこか曇り空の方が、精神状態は良くなりますね。新たな、とんでもない悩みが入り込むスキを作らないという事ですけどね。

K いつもちょっと忙しくしているっていうのも同じようなものでしょうか。

W そうですね。だけど③の中の「目まいがしたら、逆にまわれば直る」って、ほんとなのかな。小学生のころ体育の授業が大嫌いで、もうヤケになってました。それで、授業の始まる前の休み時間に、校庭で空の方を向いて一人でぐるぐる回ってましたけどね。止まった瞬間、すごく気持ちが悪くなるんです。あのとき、止まらないで、すぐ逆にまわれば、よかったのかな?

K 今度試してみてくださいよ、どこかの滝の上で。今までたいへんお世話になりました。

 あと、第1幕でジュリエットが13歳だって書いてありますね。これにはちょっと驚きました。ジュリエットのお母さんは、「13歳のときには、もう母親だった」と言ってますしね。

W 「あなたは、いま何歳なんだ?」って話になりますよね。ロミオの年齢は書いてませんけどね。多分10代でしょう。日本の歌舞伎と同じで、シェイクスピアの時代に女性の役者はいなかったんで、ジュリエットもその母親も若い男の役者が演じていたんでしょう。

 それから、最初、ロミオが恋愛問題で悩んでいる様子が描かれているんですけど、僕はてっきり、ジュリエットが相手だと思ってました。でも、よく読んでみると全然別人なんですよね。作劇術がとても巧妙なんです。

こうした状況を描くことで、ロミオとジュリエットの出会いが、とても鮮烈な印象になる。「僕は、今宵はじめて本当に美しい女を見たのだ!」ってね。「じゃあ、これまであれほど恋焦がれていたロザラインってなんだったんだ」というツッコミをいれたくもなりますが。

K そういうところもロミオがまだ10代前半だったって考えると、少しはわかります。大人でそんなこと言ってたら、ちょっとやばいですね。

W やばいですか。ロミオが10代前半か後半かは台本自体には書いてないので、よくわかりませんが。

2幕は、はじめにまた口上役がでてきて話をしますが、そのあとは6場構成になっています。舞踏会のあと、ロミオがジュリエットの部屋の方に忍んでゆき、二人は愛の言葉を交わすことになります。

 

    私の仇は、ただあなたの名前だけ、モンタギュー以外の名前をもっておられてもあなたはあなた。モンタギューというのはなんなのか。手でもなければ足でもない、腕でも顔でも、いいえ人間の五体のどの部分でもない。ロミオ、ほかの名前になってください!名前っていったい何なのか?みんなが薔薇と呼んでいるあの花も、ほかの名で呼ばれてもその甘い薫には変わりはないはず。同じようにロミオも、たとえロミオと呼ばれなくても、あのなつかしいお人柄に変わりはなかろう、もともとロミオという名前とは、何の関係もないお人柄なのだから。おお、ロミオ!どうかその名前を捨ててくださいまし!そしてそのかわりに、あなたにとってそう大切でもない名前のかわりに、私を私のすべてをおとりくださいまし。(ジュリエット  22場   改行を一部変更)

 

    恋人に逢いにゆく嬉しさは、勉強をやめる時の子供の嬉しさと同じだが、別れる時の悲しさは、仕方なく学校へとぼとぼと行く悲しさと同じだ、(ロミオ  22場)

 

    若い人たちの恋というものは、どうやら、真実、心の中ではなくて眼の中に宿るものと見える。 (修道士ロレンス 23場)

 

    あなた様のお供の人は秘密の守れる人でございますかね。よく世間では、二人なら秘密は守れるが、三人では秘密は守れぬ、と申しますから。(ジュリエットの乳母 24場) 

 

    ああ、年とった人たちはそうはいかぬ、死んだ人みたいにのろのろ動く、いかにも大儀そうにゆっくりと、いかにも鉛のようにとぼとぼと。(ジュリエット  25場)

 

    急ぎすぎるのは、遅すぎるのと同様、間尺には合わぬ。(修道士ロレンス 26場)

 

    言葉ではなく内容を豊かに持っている心というものは、内に溢れるものを語ることはあっても外の飾りについては語りませぬ。(ジュリエット 26場) 

 

W ⑤のセリフは、ロミオが忍んできているとは、まだ知らない時のジュリエットの独り言ですが、ロミオはバルコニーの外から、この言葉を聞いてしまいます。

便利なので、人間はいろいろなものに名前をつけますが、それにとらわれてしまったり、それがもとで不幸になったりします。名前は、事物の本質を理解する手助けになるようで、実はより深い理解の妨げになることもあります。ジュリエットは、名前と実態が乖離したら、名前を捨てるべきだと言っています。自分は名前ではなく人柄をとる、と。

K そんなにうまくはいきませんよ。

W 薔薇の花の話、好きだけどなあ。⑥では、恋人と別れる時の悲しさは、仕方なく学校へとぼとぼ行く悲しさと同じだと言っています。「学校へとぼとぼ行く悲しさ」って、このあたり、驚嘆しますけどね。今から400年以上も前に、こんな正確な認識を述べることができてる点に。今でも子どもにはよくわかってることだけど、大人、特に教育関係者なんかになると、すぐ忘れちゃって、勝手に立派なこと言い始めちゃうんですよね。「学校は楽しいところだ」「学校の勉強はとても大切だ」なんて言ってる。

 ⑦の修道士の言葉は、若者の恋が心の中ではなく目の中に宿ると、若い二人の一目ぼれについて言っています。シェイクスピアは、別に一目ぼれを批判しているんじゃなくて、そういうものだろうと言う事実認識を語っているんだと思いますけどね。この「心」より「目」って、どう思います?

K 心ってなんですかねえ。

W 人柄とか、人間性とかだと思うけど。「そういうものは信用できない」という考え方もあるのかな。 

 ⑧のジュリエットの乳母のセリフも面白いと思うんですけど。「2人なら秘密は守れるが3人になると守れなくなる」、と言っています。集団って2人から始まると思うけど、2人と3人以上ではいろんな点が違いますよね。先日亡くなった吉本隆明さんには「3人以上集まると人間は必ず疎外される」という考えがあったと思うけど。

K それは分かる気がします。

W 3人以上だと秘密が守れない。2人が一番強くて、人数が増えるほど弱くなる。20人をこえると集団の性格が大きく変わってしまうという説も聞いたことがありますね。国家なんて一番もろいものですよ。

3幕目に入ると舞台の進行が急に早くなります。ロミオの友人のマーキュシオが、喧嘩の果てに、ジュリエットのいとこのティバルトに殺され、そのティバルトはロミオに殺されます。領主の判断で、ロミオはヴェローナの町から追放されることが決まります。彼は修道士ロレンスのもとに身を寄せます。一方、ジュリエットは急な結婚を両親から迫られます。ロミオを愛するジュリエットは困惑し、やはり修道士ロレンスの所に相談にゆこうとします。

 

    キャピュレット家もモンタギュー家もくたばってしまえ!俺はもうだめだ。(マーキュシオ  3幕1場)  

 

    狂人には耳がないようだな。(修道士ロレンス)賢い人間に目がない以上、狂人に耳があるはずはありません。(ロミオ)(33場)

 

    もし万策尽きても、私にはまだ死ぬ力だけは残っている。(ジュリエット 3幕5場)

 

W ⑫から⑭が第3幕中のセリフです。⑫は深手を負って死を覚悟したロミオの友人のセリフです。興味深いのは、彼が同じようなセリフを3度も繰り返す点です。それまでロミオの友達で、ロミオの家側にいた男が、自分が助からないとわかったとたん、「両家ともくたばってしまえ」と本音を吐くんです。

K 死ぬ間際の本音ですね。僕は3幕目ではロミオの次のセリフが印象に残りました。

 

 ヴェローナの城壁から外に私の世界はありません。あるものは煉獄です、拷問です、いや地獄そのものです。この市から追放されることは、世界から追放されることです。(ロミオ 33場)

 

K ロミオが追放を宣告されたときに絶望して言う言葉ですが、これは全然共感できません。いいじゃない引っ越すくらいと思うんですけど、そういうことじゃないんですよね、きっと。昔と今だと共同体の重要さが全然違うっていうことが表れているセリフのように思いました。

W 僕は、そこはちょっと違うように読んだんですけどね。ここでロミオが言ってるヴェローナって、ジュリエットのことだと思うんです。もう少し丁寧に言えば「ジュリエットのいるヴェローナ」と言うことになりますけど。 

K なにロマンティックなこと言ってるんですか、柄にもない。

W 生まれつきロマンティックですよ、僕は。第4幕・第5幕では修道士ロレンスの思いつきで、ロミオとジュリエットの二人が幸せになれるように、ある計画が実行されます。しかし、結局いろいろな手違いから失敗に終わり、二人は死んでしまいます。まわりの人々は、その結末を大いに嘆くのですが、ずっと仲の悪かった2つの家は仲直りすることになります。

 

    どんなに怖ろしいことでも、私は一人でやり通さなければならない。(ジュリエット 43場)

 

    さ、金貨だ。こいつは売買を禁じられているお前さんのけちな薬なんかよりは、人間の魂にとってはもっと危険な毒薬なんだ、この濁りきった世間でこのためどれだけ多くの人が殺されたか分からないんだ。だから、毒薬を売っているのはわたしのほうで、お前さんのほうではない。(ロミオ 51場)

 

    よく人は、死ぬ直前に朗らかになるものだが、看病人はこれを断末魔の輝きと呼んでいる。(ロミオ 53場)

 

    おお、モンタギュー殿、お手をどうぞ。(中略)思えば、二人は親たちのいがみ合いの犠牲でした、不憫なことをしました。(ジュリエットの父親  53場)

 

K 最後の⑱は、若い二人が死んで、両家が和解する部分ですけど、何か言葉が軽いというか、こんなに簡単に仲直りできるものなのかという気もしますが。

W 僕はこの作品を読む前は、この2つの家の間ってもっと険悪で、ロミオとジュリエットの両親も子どもたちの気持ちを全く理解できない、どうしようもない親に描かれてるんだろうと思ってました。でも、実際に読んでみるとそうでもない。息子や娘がかわいくて仕方がない親たちなんですね。ちょっと無理なこともしようとするけど。少なくとも、シェイクスピアの作品によく出てくる大悪人では全くない。そこは意外でした。この作品には悪人って一人もでてこないんですよ。

 この若い2人の悲劇の直接の原因は、二人の家の仲の悪さというよりは、ロミオが衝動的に人を殺してしまったことにあるんじゃないでしょうか。

もうひとつ、修道士ロレンスという人が出てきますね。かなり年配で、若い二人を助けようといろんな策を弄するんですが、すべて裏目にでる。よく練られた計画ではあるんだけど、人為的な計らいだけに、どこかにもろさがある。具体的には他の町にいるロミオにだした手紙が、伝染病が蔓延していたために届かなかった、といったことですが。何もしない方がよかったのに、と思います。前回も言いましたけど、人工的な計らいは無作為とか自然には勝てないことが多いんじゃないのかな。

 4幕・5幕の、「ある薬を飲むと死んだようになるけど、あとで生き返る」って話は、以前、フランスの小説でも読んだことがありました。実際にあったんですかね、こういう薬が。

K 手術するときの全身麻酔みたいなものですかね。

W ああ、あれですか。僕は去年、病院で2度もかけられました。実際には数時間たっているんだけど、自分では5分くらいにしか感じない。「はい、終わりました」とか言われて。最後は、二人の死と両家の和解が描かれて芝居は幕を閉じます。

 

 

シェイクスピアについて

W 小池さん、これまでシェイクスピアの作品は、なにか読んだことありましたか?

K 「マクベス」だけですね。

W マクベス夫人って怖かったでしょ。あれこそ本物の悪人ですね。彼の作品のことについて、もう少し話しましょうか。次に引用するのは、ニーチェの『人間的、あまりに人間的』の中の文章です。

 

 モラリストとしてのシェークスピア。――シェークスピアは情熱に関してずいぶん思索をめぐらせていたし、多分彼の気質からして多くの情熱にきわめて近しい交渉をもっていたであろう(劇作家は一般にかなり悪人である)。しかし彼は、モンテーニュのように、それについて語ることはできずに、情念に関するもろもろの考察を情念につかれた人物の口に託した、たしかにこれは自然にもとるが、しかし彼の戯曲をきわめて思想の豊かなものとするので、彼の戯曲は他のあらゆる戯曲を空虚にみえさせ、それらに対する一般の嫌悪を招きがちなほどである。――シラーの警句(ほとんどいつも間違った、またつまらぬ思いつきがそれの基礎になっている)はまさに舞台警句であり、かかるものとしてきわめて強く作用する。ところがシェークスピアの警句は、彼の模範たるモンテーニュの名を辱めず、実にまじめな思想を洗練された形式に含んでいる、しかしそのため芝居客の眼には、あまりに遠くて微妙すぎ、したがって効果的ではない。

(ニーチェ 人間的あまりに人間的1、池尾健一訳 ちくま学芸文庫1994、 206207ページ 第4章芸術家や著作家の魂から、より)

 

 

K 「これは自然にもとるが」というところがありますが、ここはどういうことですか?

W シェイクスピアの作品は全部戯曲だから、彼がどう思ったかということは1行も書いてないんですね。すべて劇内の登場人物がしゃべる話という形になっています。また、そのあとに書いてあるように、シェイクスピア自身の持っていた思想・哲学は大変に立派なものだから、劇中人物が脇役に至るまで、みんな哲学者のような内容のことをしゃべるということになります。

「ロミオとジュリエット」だとロミオの友人やジュリエットの乳母、その他の人たちですが。一般の人が哲学者のようになるので、それは「自然にもとるだろう」とニーチェは言っているんだと思います。だけど、そのうしろを読むとわかるように、決してそのことで、シェイクスピアの作品を否定したり、低く見たりしているわけではないんですね。「登場人物が、みんな哲学者」って楽しいじゃないですか。

 ニーチェの作品は、今回引用した個所もそうですが、短い断章、箴言からできてますよね。文中のモンテーニュの『エセ―』も基本的にそういう形です。少し長い章もありますが。

つまり、シェイクスピアとニーチェ、モンテーニュは作品の形式からいっても似てるわけです。決して大論文を書くわけじゃない。「ぼそっ、ぼそっ」と大切なことを言う。ニーチェとモンテーニュは地の文で、シェイクスピアは会話の中で、それをやったわけです。

K なるほど。

W 僕は、こういう表現形式が大好きなんです。いろいろな人の著作がありますが、特にシェイクスピアの戯曲、モンテーニュの「エセ―」、ニーチェのさまざまな作品が好きだったんです。ただ、この3人がどう結びつくかは自分でもよくわかりませんでした。時代も国も違うし。だから、この引用したニーチェの文章を最近見つけた時は、とてもうれしかったです。モンテーニュ、シェイクスピア、ニーチェが一つの線の形ではっきり結ばれたので。

内容的にも3者は似ていて,非宗教的というか非キリスト教的ヨーロッパ文化の大きな流れを表しています。ローマ時代のプルタルコスやセネカの影響が見られることも3人に共通しています。セネカの言葉は、前回の「盗まれた手紙」の冒頭でポーも引用しています。「叡智にとりてあまりに鋭敏すぎるほど忌むものはなし」(佐々木直次郎訳)というものですが。

K ただ、ニーチェは最後に「芝居客の眼にはあまりに遠くて微妙すぎ」と言っていますね。ここはどうですか?

W 本を読むのと違って、芝居は演じている側のスピードにのって観なければなりませんね。意味がわからなくても読み返したり、立ち止まって考えたりできない。考え込むと自分だけ置いてきぼりをくってしまう。そういう意味で、シェイクスピアの芝居は重たすぎるところがあるんじゃないか、客に負担をかけ過ぎるんじゃないかと言っているんだと思いますね。さっき18個の引用をしましたが、あれが全部2時間の芝居の中に放り込まれているわけです。「素晴らしすぎて、困っちゃう」というやつですね。同じ芝居を何度も観たり、戯曲を読むことで解消される点だとは思いますが。

K あとシェイクスピアについて何かありますか?

W 僕にとっての、いろいろな意味でのナンバーワンというのをあげてみてもいいですか?

K どうぞご勝手に。

W まず、最初に読んだものですが、これは大学の1年か2年の英語の時間に読んだ「ジュリアス・シーザー」なんです。もちろん、子供のころから「ベニスの商人」とか「ロミオとジュリエット」がどんな話かは知っていましたが、ちゃんと読んだわけではありませんでしたから。その「ジュリアス・シーザー」を教えてくれた先生の話がとても面白かったんですね。臨場感があると言うか、教室がローマ時代にタイムスリップしたようで。

ローマの英雄シーザーが、実はとても小心な人物で、まわりの人間が自分のことをどう見ているのかすごく気にしたり、占い師の言葉に動かされたりします。そして、中盤でブルータスらの部下に殺されてしまいます。「ブルータス、お前もか?」という有名なセリフが出てきます。

シーザーを殺したあとのブルータスの演説と、その演説の内容を否定しようとするアントニーの演説がこの芝居の中心部分です。最初、ブルータスの演説にひかれた民衆がアントニーの言葉で覆ります。政治家の言葉に左右される民衆の弱さが描かれています。

K シェイクスピアはどの人に好意的なんですか?

W それが誰でもないんですね。シーザーもブルータスもアントニーも、彼らに煽動される民衆にも冷たい目を向ける。作品全体から感じられるのは、政治というものに対する拒否的な視線というか絶望感みたいなものですね。人前で大きな声で立派なことをしゃべる人も、そういう人の話に聞き入って納得しちゃう人も、実は駄目なんだと言ってるように思いました。

冷徹なニヒリズムがあって、その辺はとても共感できました。そんなに長い作品じゃないし、これはおもしろいですよ。数年前に「雄弁な政治家の言葉に繰られ、人々は何事もなかったかのように自分の意見を変えてしまう。人間の心のもろさにせまった政治劇」という文章で、この作品を大学生に紹介したことがありました。

この「ジュリアス・シーザー」を習って以来、シェイクスピアの芝居はよく見ました。さっきあげた太宰の「新ハムレット」まで観ました。家の近くにあった「三百人劇場」というところでやっていたのでよく覚えています。たしか「刑事コロンボ」の吹き替えで有名な小池朝雄も出ていました。あれは戯曲ではなくて小説なんだと太宰は何度も書いていましたが。

K 実際に観た中で一番おもしろかったのはなんですか?

W それは若くして亡くなった歌舞伎俳優の初代・尾上辰之助が演じた「リチャード三世」(演出・和田豊)です。ネットで調べたら1980年の上演でした。あんまりおもしろかったので、翌日、もう一回見に行ったんです。僕は芝居好きですが、2日続けて同じ芝居を見に行ったのは、さすがにその時だけでした。

シェイクスピアの描くリチャード三世って、本当の大悪人で良いところが一つもないんです。まあ、外面は良いのかな。外は白くて、中は真っ黒。この人も狡猾な政治家ですが。ああいう人を主役にして長い芝居を一つ作りあげちゃうのにはびっくりしました。そういう作品は芝居でも映画でも見たことなかったので。

K 「ロミオとジュリエット」には悪人が出てこないという話でしたが、悪人が出てくる作品も多いんですか、シェイクスピアは。

W とても多いですね。ただ「魅惑的な悪」というか「悪人の魅力」も描かれています。太宰の言う「情熱の火柱の太さ」[足音の大きさ]は悪人にも感じられます。それに歌舞伎だと悪い人が最後に改心したり、悪い人だと思ってたら実は良い人だったという芝居が多いんです。これを「もどり」と言うんですが。でも、シェイクスピアの芝居では、最後まで悪人のままで、殺されてしまうというケースが多いですね。そこは大きな違いだと思います。

K でも、結局、殺されてしまうんだったら、勧善懲悪の芝居ってことになりますよね。

W 「リチャード三世」で言うと、この芝居は525場で、彼は最後の25場目で殺されるんです。勧善懲悪になるのは最後の一場だけで、あとの場面はすべて悪の魅力を見せるとも言えますね。

K 見た芝居だけでなく、読んだ戯曲も合わせて一番好きなのはなんですか?

W それは、あまり有名な作品ではないんですが、「アテネのタイモン」です。このお話については、昨年小池さんと出した本の中で少し詳しくしゃべりましたから、ここでは簡単にしておきますが。

実在の人物らしいんですが、ギリシャ時代のアテネにタイモンという大富豪がいました。彼はとても良い人で、友人・知人に気前よくお金をばらまいているうちに大きな借金を背負ってしまいます。すると手のひらを返すようにみんな彼から離れていってしまいます。誰も困った彼を助けてはくれなかったんです。そこでタイモンは、人々に復讐を決意するといった話です。マルクスの『資本論』にも引用されているそうですが。

K 先生自身の研究と何か関係しそうな話ってありますか?

W 僕は、今現在ですと、やはり、青年期って何かということに一番関心がありますが、そういう意味では「ハムレット」ですね。「ハムレット」はシェイクスピアの作品全体の中でも大きな謎ですけど、青年期って何かを考えるうえでも、とても重要な芝居だと思っています。ハムレットって、本当にいろんなことに悩んでいるんですけど、それが今から見ると時代遅れ、といったところが全然ないんですよね。400年以上たっているのに。

今日とりあげたロミオは、「小型のハムレット」というか「恋愛限定版のハムレット」という気がします。限定されているだけ、わかりやすいんだけど、謎の膜も薄くなっていますね。

 青空文庫にシェイクスピアの「ハムレット」がいつ入るか分からないけど、太宰の「新ハムレット」はすでに入っています。だから太宰の作品を取り上げて両者を比較し、そこから青年期って何かって問題を、いつか考えてみたいと思っています。

それから、人間の一生をいくつかに分けて、その時期ごとの特徴を考える研究って教育学や心理学の中でよくありますよね。「発達段階論」って言うのかな。それについては次の作品が面白いです。

 

 ジェークイズ「世界はすべてひとつの舞台。男も女も役者にすぎぬ。誰もが舞台に登場し、誰もがそこから去っていく。時に応じて役を変え、生きている間、演じつづける。人生は7幕の芝居なのだ。

 まず手はじめは赤ん坊、乳母に抱かれてぴいぴい喚き、飲んだミルクを口からこぼす。

 さて、その次は小学生。かばん手に持ち、泣きながら、カタツムリよろしく、いやいやながらの学校通い。朝に洗ったその顔も、午前中しか持ちはせぬ。

 次なる役は、恋する青年。長いため息ふうふうと、恋のかまどに吹きこんで、歌うは悲しい愛の歌。思いをかけた恋人の、清らかな顔容(かんばせ)褒めたたえる。

 お次は兵士、あたりかまわず罵りわめき、口のまわりに生やした髭は、乱暴者の豹のよう。あぶくのような名誉を求め、武器を片手に、評判ばかり気にかける。間近に砲火を浴びるまで。

 さて、その次は裁判官。わいろの若鶏の肉、太った腹に詰めこんで、目つき厳しく、髪厳めしく、故事や格言、引用し、いつもながらの判決述べれば、はて、誰にでもつとまる役。

 第6幕は、痩せた老人。ズボンの先からスリッパ突きだし、鼻には眼鏡、腰には袋。若い時から大切に、とっておいた長靴下、痩せた脛には大きすぎる。男らしい大きな声も、今じゃ子供のきんきん声、口笛にしか聞こえない。

 さて、波乱万丈、変化に富んだ、この物語の終幕は、生まれたばかりの赤ん坊、その赤ん坊に逆戻り、記憶もなければ、目も歯もない。味もなければ、何もない。

(シェイクスピア「お気に召すまま」高野優訳『シェイクスピアの世界』154155ページ 、創元社 19941599

 

W 最初の「世界はすべてひとつの舞台。男も女も役者にすぎぬ」というところは有名ですよね。シェイクスピアは人生を7つの段階に分けてるんですが、人間を見る目が甘くないんですよね。とても冷徹に見てる。救いがないとも言えるんだけど。でも、400年以上前に作られた発達段階論だけど、少しも時代遅れじゃない。今でも立派に通用する。

 僕なんてもう6番目の段階に入っていると思うけど、実感としては、今あるいろんな発達段階論や生涯発達論よりシェイクスピアの論の方に説得力を感じますね。現在の発達段階論って、例えばエリック・エリクソンでも、人生をバラ色に見すぎているというか、人間理解に甘さを感じるんですよね。特に人生の後半期について。自分の何年かあとを考えると「記憶もなければ、目も歯もない、味もなければ何もない」という言い方の方に真実味を感じます。 

K さっき一番好きな作品について聞きましたけど、一番好きな言葉ってありますか?

W それは、「タイタス・アンドロニカス」という作品の中でアーロンという人が言う「悪魔ってものがあるなら、俺は悪魔になりたい」って言葉ですね。この言葉は、小池さんと出した本のどこかに忍び込ませてあります。いろんな人の訳を並べてみましょう。

 

悪魔ってものがいるなら、おれは悪魔になりたい。(小田島雄志訳)

悪魔と言うものがいるなら、おれはその悪魔になりたい。(福田恒存訳)

もしも悪魔というものがいるんだったら、おれはそれになりたいね。(木下順二訳)

悪魔と言うものがいるのなら、おれはその一匹になりたいね。(富原芳影訳)

夜叉という者が実際にあるものなら、おれは其夜叉になりたい。(坪内逍遥訳)

 

W 原文は「If there be devils,would I were a devil,」ですけどね。僕は小田島さんの訳で読んだんですが、「いる」じゃなくて「ある」で覚えていたんですよね、なぜか。坪内逍遥の訳は悪魔ではなく夜叉になっているんだけど、彼だけ「いる」じゃなくて「ある」なんです。

K 先生にも悪魔願望があるんですかね。

W 気が弱くて、実際にはなれませんけどね。

 

 

前回のブログについて

W ところで、前回のブログについて、僕の高校時代の友人からメールをもらいました。

K 浜松在住で「佐鳴湖ウオーキングマップ」を作っている方ですね。17章で紹介させていただきましたが。

W 彼からは毎回、とても丁寧なメールをもらえるので、非常に参考になります。今回のメールについては、ブログで紹介してもよいという許諾をもらいましたので、紹介させてもらいます。

 

暑いですがお元気ですか?ブログ拝見しました。

 

実は高校時代の英語のポーは記憶にないのです。サキは面白かったので英語以外にも読んだ記憶があるのですが。今回読んでみて、これだけ面白いのに何故記憶になかったのだろうかと謎解きをしてみたくなったくらいです。数学、物理学、心理学まで出て来て、当時の高校生の自分は絶対に興味を持ったはずなのですが。あまりぴったりしたので記憶としては残らない事ってあるのかしら。まるでポーの小説の中のDの策略にはまってしまったようです。

 

ブログの中では、プロ棋士とコンピュータープログラムのお話が実に興味をそそられました。現に身近なデザイン関連でもコンピュータープログラムに取って代わられなくなった周辺職業がいくつかありますし、何年か前には、ハリウッドのスタントマン組合か何かがCGのバットマンに職を奪われて訴えたケースがあったと思います。あの羽生名人が、密かにコンピューターを睨みつけている姿も何となく悲哀を感じてしまいます。

 

実は将棋も含めてゲーム自体が、コンピュータープログラマーにとっては格好の標的なのだと思います。ルールが厳密に固定されているので正に静止した標的です。何故標的にされるのかは少しだけ分かります。渡部君もご存じのように私はゲーム音痴で、将棋は金と銀の動きもすぐ忘れてしまいますし、トランプはババ抜きと神経衰弱しかルールを思い出せません。ましてや麻雀は牌を触った事もありません。ルールを憶えるのが苦手な上に、他人の作ったルールに従う事が我慢ならない性格なので、全く上達以前の問題なのです。コンピュータープログラマーの中にはあるゲームに敵意を持っている人が必ずいるのではないかと、私には思えます。高額な賞金を稼ぐプロを、なんとか打ち負かしたいと考える人もいるでしょう。プログラミングは、知力、体力無制限の孤独な作業で、現代版の「地下室の手記」です。と言うと、どうしても暗いイメージになってしまいますが、実はプログラミング(というよりはアルゴリズム)にはルールがないのです。心理学の要素を組み込むこともできれば、時々ランダムにしたり、わざと間違えたりする事さえできるのです。そして何より圧倒的に早い。この何でもありの世界観が、プロ棋士たちには脅威なのだと思います。

 

渡部君のおっしゃるようにプログラマー同士の対決が近い将来の姿かもしれません。そしてその次はプログラム作成プログラム同士の対決と続いていくかも。

 

お体には気をつけてください。次のブログも楽しみにしております。

 

K 高校時代、「盗まれた手紙」を英語の時間にやったおぼえはないと書いてありますよ。

W このあと、二人で何度かメールのやりとりをして、高校3年の時に、選択科目を取る方式になったので、その時、僕がとった英語の教材に載っていたのではないかという話になりました。ひょっとしたら、中学3年の時の教科書かもしれないんですけど。なぜか、挿絵をよく憶えています。

K 英語で「盗まれた手紙」を読んだというのが、先生の全くの妄想だったら一番面白かったんですけどね。

W あぶない、あぶない。でもインターネットって本当に便利で、ヤフーやグーグルの検索で、「盗まれた手紙 教科書」と入れると、「昔、高校の英語の教科書に載っていた」とか書いてる人が出てくるんですよね。おもしろいなあ。

K コンピュータプログラムとゲームについても、いろいろと興味深いことが書かれていますね。

W 本当にそうですね。わざと間違えるといった、すごく人間的なことができたり、プログラム作成プログラム同士の将棋の対決とかね。このあたりは、想像することもできませんでした。人間がコンピュータに仕事を奪われてしまうといったことも、実際にいろいろな領域で見られるのですね。

K コンピュータと仕事の関係は、これからも大きく変わっていくのかもしれませんね。

W そうですね。僕は両面あると思います。コンピュータにかかわる仕事や毎日使う仕事って増えてますよね。文化系の大学生の就職先としても広がってきている。逆に、メールに書かれていたように、人間が必要なくなってしまう仕事もでてきてるんだけど。

 僕は時々、学生の人からどんな仕事についたらいいかという相談を受ける事があります。僕はその時、「自分が一人でいる方が好きか、人と一緒にいる方が好きか」を判断してそれにあった職業を選べばいいんじゃないかと答えてます。ドイツの哲学者、ショーペンハウアーも言ってますが、人間を仕分ける軸として「一人好き」「集団好き」って、結構大きな軸で、これに匹敵する軸ってほとんどない。それに、20歳過ぎたら人間の性格なんて大きくは変わらないから、性格を変えようなんて考えずに、自分の性格にあった職業を選ぶとよいと思いますね。

K コンピュータ関係の仕事は「一人好き」の人が選ぶとよいと思いますか。

W 僕は、何となくそうなんではないかと考えていましたが、今回の友人からのメールを見て、やはりそうかと思いました。  

 もう20年近く、日本はずっと不景気で雇用する側の高姿勢が続いています。それに雇用する側が有利になるような法律改正もいくつかあって、働く側の待遇改善がなかなか進みませんでした。でも、これから先、いつまでも不景気が続くとは思えない。今でも、家でコンピュータの前に坐っていれば、充分仕事ができる、会社に毎日出勤するより、それの方が仕事の効率がよいという職種はいろいろあると思うんですね。

だけど、雇用者側が高姿勢で、「金出しているんだから毎日来い、朝から来い、残業しろ,嫌なら会社やめろ」というのが今の状況じゃないかしら。日本の景気が良くなれば、そういう会社には人が来なくなる。僕だって同じ給料で週2日勤務と週5日勤務だったら、全く迷わず前者を選びますからね。通勤電車に揺られたり、つまらない会議に時間をとられるのって嫌じゃないですか。できたら、仕事は家でやってしまいたい。コンピュータの進歩で週2日勤務の可能性は充分に準備されているんだから、あとは景気が良くなって、社員に「毎日来い」なんて会社には人が全然来なくて、どんどん潰れていくようになればいいと思うんですけどね。

K 今回はだいぶ長くなりましたね。そろそろやめましょ。

 

20129月  東京・大泉学園にて)

 

<参考・引用文献>

シェイクスピア  ロミオとジュリエット(坪内逍遥訳) 1595

太宰治  新ハムレット 1941

(以上 青空文庫)

 

シェイクスピア  ロミオとジューリエット(平井正穂訳)岩波文庫 19881595

――――ハムレット(小田島雄志訳)白水社 1983(1600)

――――ジュリアス・シーザー(同上)白水社 1983(1599)

――――タイタス・アンドロニカス(同上)白水社 19831593

――――アテネのタイモン(同上)白水社 1983(1607)

――――お気に召すまま (同上)白水社 1983(1599)

――――リチャード三世(同上)白水社 19831592

――――マクベス(同上)白水社 19831606

 

フランソワ・ラロック シェイクスピアの世界(高野優訳)創元社 1994

シェイクスピア  シェイクスピア大全(CD-ROM版)  新潮社 2003

シェイクスピア  ザ・シェイクスピア 全戯曲全一冊(坪内逍遥訳)第三書房 1989

野上豊一郎編解註・謡曲全集(1-6)  中央公論社  1971

ニーチェ 『人間的、あまりに人間的1』(浅尾健一訳) ちくま学術文庫 1994(1878)

モンテーニュ『エセ―(1)-(6)』(原二郎訳) 岩波文庫 1965(1588)